仙台地方裁判所 平成2年(行ウ)6号 判決 1995年12月07日
原告
甲野太郎
外一〇名
右一一名訴訟代理人弁護士
鈴木宏一
同
馬場亨
被告
国
右代表者法務大臣
前田勲男
右指定代理人
黒津英明
外七名
主文
一 原告らの請求をいずれも棄却する。
二 訴訟費用は原告らの負担とする。
事実及び理由
第一 原告らの請求
被告は、原告らに対し、それぞれ三〇万円及びこれに対する平成二年一〇月五日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
第二 当事者の主張
一 請求の原因
1 原告らの地位
原告らは、いずれも被告に雇用され郵政省職員として、別紙措置一覧表、局名欄記載の郵便局に勤務する者又はしていた者である。
2 胸章着用の義務付け
(一) 職員胸章要綱等の制定
東北郵政局長は、平成元年四月二一日、東北郵政局達第七号「職員胸章要綱」を制定した。同要綱三条一項本文は、「職員は、勤務中においては、胸章を左胸部の見やすい箇所に着用するものとする」と定めている。この達を受けて、別紙措置一覧表、局名欄記載の各郵便局長は、「職員胸章内規」を制定し、その中で、「職員は、勤務中においては、胸章を左胸部の見やすい箇所に着用しなければならない」と定めて、原告らを含む全職員に対し、胸章(以下、「ネームプレート」という。)の着用を義務付けた。
(二) 指導等の処分
原告らが、ネームプレートの着用を拒否したところ、別紙措置一覧表、措置欄記載の日に局名欄記載の各郵便局長によって、措置欄記載の指導、警告、職務命令、注意、訓告の各処分がされた。
3 ネームプレート着用強制の目的
郵政当局による郵政職員に対するネームプレート着用運動の展開は、昭和四〇年代初めより行われた。それは、郵政当局による労務管理強化政策の一環としてされたものであり、その目的は、郵政職員の意識の中から、全逓信労働組合(以下、「全逓」という。)の組合員としての意識を駆逐し、強引に郵政事業の従業員として、職場指揮命令系統への忠誠意識を組織し、郵政職員に自ら隷属者であることを日常的に表明させて、個々の労働者の個人としてのアイデンティティー(自己同一性)を解体して、全人格的な郵政事業への帰属意識を形成しようとするものであった。
郵政当局は、全逓を敵視し、現場から全逓の組合運動を排除する運動を展開してきた。その基本的視点は、従業員と組合員との区別を明確にし、勤務時間中はあくまで郵政職員という立場で行動させるということにあった。これが郵政当局が職員にネームプレートを着用させようとした根本目的である。
そして、全逓がネームプレート着用に対する反対運動を展開したのに対し、郵政当局は、個々の組合員に着用を強要し、着用者と非着用者との間で差別的人事をし、ネームプレート着用に組合脱退の意味を持たせた。この過程で、全逓は、組織を分断され、遂には昭和五八年一月にネームプレート着用に同意するに至った。
4 ネームプレート着用強制による原告らの権利侵害
ネームプレートの着用強制は、以下のとおり原告らの憲法で保障された自由権の中でも中核をなす精神的自由権を侵害するものである。
(一) 氏名権の侵害
氏名は、社会的に見れば、個人を他人から識別し、特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人から見れば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であって、人格権の一内容を構成するものである(最高裁判所昭和六三年二月一六日第三小法廷判決・民集四二巻二号二七頁)。
そして、氏名権は、①専用使用権、あるいは他人に冒用されない権利、②氏名選択権、あるいは自己決定権、③氏名を正確に呼称される権利、④氏名の変更を強制されない権利、⑤氏名保持権、あるいは奪われない権利、⑥通称使用の自由からなるが、この他に、氏名権の一内容として、氏名表示権が認められる。この氏名表示権は、積極、消極双方を含むが、消極的氏名表示権が氏名を表示しない権利であって、これは匿名権と称することが可能である。氏名を個人の意思に反して表示させることは、当該個人に対して自己喪失感や人格を蹂躙されたという意識をもたらし、著しい精神的苦痛を与えることになるのであり、個人の人格に対する重大な侵害となる。この氏名表示権は、実定法上も市民権を得ているものである。すなわち、著作権法一九条一項は、「著作者は、その著作物の原作品に、又はその著作物の公衆への提供若しくは提示に際し、その実名若しくは変名を著作者名として表示し、又は著作者名を表示しないこととする権利を有する」と規定している。これは、著作物の公衆への提供若しくは提示に際しての規定であるが、この基礎に本来個人の氏名を表示しあるいは表示しないごとが、個人の自由に属すべきであることが認められているのである。
ネームプレートは、原告らの氏名を記載した胸章であり、その着用強制は、勤務時間内、常時、その職務内容、勤務場所のいかんを問わず、氏名の表示を強制するものに他ならない。したがって、原告らにネームプレートの着用を強制することは、原告らの氏名権(消極的氏名表示権)を侵害するものである。
(二) プライバシー権の侵害
プライバシー権は、憲法一三条で保障されている権利であり、その内容は、単に私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利という消極的なものに止まらず、自己に関する情報の伝播を一定限度にコントロールすることを保障するものである。
ネームプレートの着用強制は、原告らに氏名の表示を強制するものであるが、氏名は、人格権の一内容をなす権利であり、個人の自己同一性の基本的徴表として、それ自体一つの自己に関する情報であり、その発信の是非は個人の自己決定に委ねられべき事柄であるから、原告らにネームプレートの着用を強制することは、原告らのプライバシー権を侵害するものである。
(三) 思想・良心の自由の侵害
憲法一九条は、思想・良心の自由を保障している。この自由は、民主主義の根幹をなす最も重要な基本的人権であり、これを制約することはできない。すなわち、基本的人権は、他の基本的人権に抵触する場合にその限りでのみ制約され得るが、思想・良心の自由に優る基本的人権は存在しない。
ネームプレートの着用強制の目的が、その歴史的経過に鑑みると、郵政当局の生産性向上運動(以下、「マル生運動」という。)の一環として、組合員の権利意識、団結意識の喪失、郵政当局への服従・従属の意思表明を狙いとするものであることは、前記3記載のとおりであるが、このような目的の下にネームプレートの着用を強制することは、郵政当局に対する忠誠心の有無を判断する「踏絵」にしようとするものであるから、原告らの思想・良心の自由を侵害するものである。
5 被告の責任
ネームプレートの着用を各職員の同意の如何にかかわらず強制することは、前記のとおり、氏名権、プライバシー権、思想・良心の自由を侵害するものである。
ところで、前記各郵便局長の原告らに対する指導等によるネームプレートの着用強制は、前記東北郵政局達第七号、各郵便局の「職員胸章内規」、「郵政部内職員訓告規程」等各関連規程に基づいて行われたものであるから、国家賠償法一条一項にいう「公務員が、その職務を行うについて」なす行為に当たるものである。
したがって、被告は、国家賠償法一条一項に基づき、原告らに対して、次の損害を賠償する責任がある。
6 原告らの精神的損害
ネームプレートの着用強制によって、原告らは、精神的自由、平安を侵害されており、被った精神的損害は、それぞれ三〇万円を下らない。
7 よって、原告らは、被告に対し、国家賠償法一条一項に基づく損害賠償請求として、それぞれ三〇万円及びこれに対する不法行為の後であり訴状送達の日の翌日である平成二年一〇月五日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 請求の原因に対する認否
1 1項は認める。
2 2項は認める。
3 3項は不知ないし否認する。但し、昭和四〇年代初めからネームプレートの着用指導を行っていたことは認める。
4 4項は否認する。
5 5項は否認する。但し、原告らが、別紙措置一覧表、措置欄に記載した日に局名欄記載の各郵便局長によって、同措置欄記載の各措置を受けたこと、右措置が東北郵政局達第七号等に基づき行われたことは認める。
6 6項は否認する。
三 被告の主張
本件各郵便局長の採った指導、警告、職務命令、注意、訓告の各措置は、いずれも、上司がその指揮監督権に基づき、部下職員に対し、その非違行為を指摘して注意を促し、将来を戒めるために発する事実上の措置であるが、これら措置は、ネームプレートの着用を促すためにされたものであり、ネームプレートの着用を促すことは、次のとおり、何ら違法ではないから、右各措置も何ら違法なものではない。
1 郵政事業の特質
郵政省は、郵便事業、郵便貯金事業、簡易生命保険事業等の国の事業及び電気通信に関する行政事務を一体的に遂行する責任を負う行政機関として設置されているものであり(郵政省設置法三条一項)、右の各事業は、あまねく公平にその役務を提供し、その利用を通じて国民の経済生活の安定を図り、公共の福祉を増進することを目的として運営されているものである。そして、その各事業の内容は、国民生活全体の利益と密接な関連を有する極めて公共性の高い事業である。
中でも、国営事業である郵便事業、郵便貯金事業及び簡易生命保険事業等の郵政事業については、独立採算の下、全国津々浦々に二万四〇〇〇余りの郵便局を設置し、直接国民に行政サービスを提供しているものであるが、国家経済と国民福祉に貢献し、低廉かつ国民一般に行きとどくサービスを提供するため、企業的・能率的な経営を図らなければならない使命を負っている。
特に、今日、郵政事業は、社会・経済の変転に伴い厳しい環境条件にさらされており、こうした状況はますます変化している中で、郵政事業に対する社会的要請も一段と厳しく、かつ多様化しているところであり、こうした時代の要請に積極的かつ的確に応えるため、事業の合理化・効率化、各種サービスの改善・開発を推進し、積極的な経営と正常かつ円滑な事業運営に努めているところである。
2 ネームプレート着用の目的
国家公務員である郵政職員は、法令及び上司の命令に従う義務(国家公務員法九八条一項)、職務に専念する義務(同法一〇一条)等、国民全体の奉仕者としての服務上の義務を負うとともに、前記のような郵政事業の特質から、職員一人ひとりに対し職責の自覚と高品質のサービスの提供が強く求められており、ネームプレート着用の目的も、まさにこうした求めに基づくものである。すなわち、各郵便局において、郵政事業に携わる職員一人ひとりが、ネームプレートを着用することにより、職責の自覚と利用者である国民に対してその取扱者である身分を明らかにし、利用者が安心感を持って利用でき、信頼され、親しまれるサービスを提供することを目的に、ネームプレートを着用するよう指導しているものである。なお、右のような目的からするネームプレートの着用については、郵便局の全職員が一体となって取り組んでこそ本来の趣旨を全うできるものであり、これを利用者に接するか否かで着否を左右すべきものでないことはいうまでもない。
3 氏名権侵害との主張について
原告らの引用する最高裁判所判決は、氏名に関する権利・利益が人格権の一内容を構成するものとし、氏名を他人に冒用されない権利・利益について言及しているものの、氏名を正確に呼称される利益はその性質上不法行為法上の利益として必ずしも十分に強固なものとはいえないとした上、不正確な呼称をした行為については、特段の事情がある場合でなければ、不法行為は成立しないと判示している。
したがって、原告ら主張の氏名を表示しない権利が、直ちに氏名に関する権利・利益として認められるものではないから、原告ら主張のように、業務内における氏名の表示が直ちに人格権の侵害になるというのは短絡的な主張である。氏名は、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるから、およそ人が社会生活を営む上で氏名の表示が必要となることは容易に理解し得るところであり、本件の場合には、原告らの氏名に関する権利・利益の侵害が問題とされるような場面でないことは明白である。
4 プライバシー権侵害との主張について
原告らは、ネームプレートの着用が個人の自己に関する情報(氏名を含む。)をコントロールする権利であるプライバシー権を侵害すると主張するが、そもそもプライバシー権とは、私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利であるから、氏名の表示はその保障には含まれない。
また、仮にプライバシー権を自己に関する情報をコントロールする権利と解するとしても、その「自己情報」及び「コントロール」の意味内容が検討されなければならないところ、自己情報とは、他人に知られたくない私事に関する情報であり、かつ秘匿することが法的保護に値する情報でなければならないというべきであるから、氏名は自己情報には含まれない。
更に、仮に本件をプライバシー権の問題として捉えるとしても、プライバシー権の存在とその侵害があるか否かとは明確に峻別して考えなければならない。
プライバシー権は、「私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利」とされているが、そもそも、プライバシー権侵害が成立するための要件としては、「一般人の感受性を基準にして当該私人の立場に立った場合公開を欲しないであろうと認められることがらであること、換言すれば一般人の感覚を基準として公開されることによって心理的な負担、不安を覚えるであろうと認められることがらであること」(東京地方裁判所昭和三九年九月二八日判決・下民集一五巻九号二三一七頁)が必要とされる。したがって、本件においても、仮にネームプレートの着用を原告らの主張のごとくプライバシー権の問題として捉えるとしても、権利の侵害の存否の判断にあたっては、右判断基準が妥当するものであり、この基準に照らしてみた場合、国民全体の奉仕者として、国民に対して郵政行政サービスを提供すべき義務を負っている郵政職員に対し、その一環として勤務時間中にネームプレートを着用するよう義務付けたことに対して、世間一般人の感覚として、これをもってプライバシー権侵害と感じるとは到底考えられない。
5 思想・良心の自由侵害との主張について
原告らは、ネームプレート着用の目的が労務管理にあるとし、右目的の下にネームプレート着用を強制することは、思想・良心の自由の侵害であると主張するが、ネームプレート着用の目的は、前記2のとおりであり、原告らの主張は、ネームプレート着用の目的をことさらに歪曲したものである。
四 原告らの反論
1 郵政事業の特質について
郵便法、郵便貯金法、簡易生命保険法等郵政事業に関する法律においては、その公共性の故にこれらを国営の事業とすることがうたわれているが、これら法律の精神は、国民生活の安定、福祉の増進に寄与するため、郵政事業の公共性を優先し、営利を目的としないというところにある。
被告は、郵政事業が、企業的・能率的な経営を図らなければならない使命を負っている旨主張するが、これは、非営利性という法律の精神にもとるものである。
2 原告らに対する権利侵害について
各郵便局長の原告らに対するネームプレートの着用強制によって原告らが侵害された権利は、憲法が保障する氏名権、プライバシー権、思想・良心の自由という、自由権の中でも中核をなす精神的自由に属する基本権である。その制限のためには、目的、方法において必要やむを得ない合理的理由が必要である。そして、精神的自由の規制立法については、規制対象行為と害悪発生との間に明白な関連性が認められなければならないという「明白かつ現在の危険」の基準が適用されるべきであるが、本件各権利・自由の制限についても、この基準が妥当する。
被告は、本件ネームプレート着用の目的を、サービスの向上と職員の職責の自覚であると主張しているが、右目的により氏名権等を制限するには、サービスの向上と職員の職責の自覚が、ネームプレートの着用なしには図れないという関係が、客観的に認められなければならない。
しかし、実際には、客がサービスを受けるときは、担当者の氏名は気にしておらず、ネームプレートを見てもいないのであり、客が何らかの都合で、担当者を特定する必要が生じても、ネームプレートを見て氏名を表示するのではなく、窓口番号やその担当者の外形的特徴により行っているのであって、ネームプレートはサービスの向上につながっていない。また、ネームプレートを着用しても、不祥事が特段に減っていないことから、ネームプレートの着用により、職員の職責の自覚が醸成されるという関係にもない。
しかも、本件で、各郵便局長が原告らにした各措置は異常と思われるほど執拗であり、郵政局人事局長通達「昇給の欠格基準について」によれば、「引き続き一年以内において三回以上訓告を受けた場合は一号俸を定期の昇給俸数から減ぜられる」旨の規定が定められているから、原告らに対する各措置は、原告らの精神的自由を侵害するばかりでなく、経済的損害をも与えるものであって、被告主張のような事実上の措置であるというには止まらない。
したがって、前記目的の下に、氏名権等を制限する合理的理由はない。
第三 当裁判所の判断
一 請求の原因1、2項記載の事実は当事者間に争いがない。
二 請求の原因3項(ネームプレート着用の目的)について判断する。
甲第二〇号証、乙第一、二号証及び証人加藤茂の供述によれば、本件ネームプレート着用の目的は、対外的には、郵便局を利用する者に対し、取扱者としての身分、氏名等を明らかにすることにより、信頼感、親近感のある仕事を行い、もって、サービスの向上を図るとともに、対内的には、職員の職務に対する責任と自覚、職員間の融和感を醸成し、また職場の秩序の維持を図ることを目的とするものであると認められる。
原告らは、ネームプレート着用の目的を、郵政職員の意識の中から、組合員意識を駆逐し、郵政事業の従業員として、職場指揮命令系統への忠誠意識を組織し、郵政職員に自ら隷属者であることを日常的に表明させて、個々の労働者の個人としてのアイデンティティーを解体して、全人格的な郵政事業への帰属意識を形成しようとするものである旨主張し、<書証番号等略>の各供述はこれに沿うものであり、右各証拠によれば、昭和四〇年代から初められた郵政当局によるネームプレート着用の指導に対し、全逓はその目的が原告らの主張するところにあるとして、ネームプレート着用問題を労使間の闘争の象徴的な課題として、ネームプレート不着用の運動を展開していたことが認められる。
しかしながら、そのことは、ネームプレート着用問題に対する当時の全逓の考え方を示すにすぎず、これから直ちに、本件ネームプレート着用の目的を原告ら主張のようなものであると認めることはできず、他に、原告ら主張の目的を認める証拠はない。
三 請求の原因4項(一)(氏名権の侵害)について判断する。
氏名は、社会的にみれば、個人を他人から識別し特定する機能を有するものであるが、同時に、その個人からみれば、人が個人として尊重される基礎であり、その個人の人格の象徴であるから、各個人は、氏名を表示するかしないかを決定する法律上の利益を有するものであり、これを氏名権と称するかはともかく、何ら正当な理由がないのに氏名の表示を強制された場合には、不法行為が成立する場合もあるというべきであろう。そして、右正当な理由の有無は、氏名表示の目的、必要性、氏名表示の態様、氏名を表示することによる不利益の程度を総合して判断すべきである。
1 氏名表示の目的、必要性
(一) 本件ネームプレート着用による氏名の表示の目的は、前記のとおりであり、その正当性が認められる。
(二) 当事者間に争いのない事実、乙第一二ないし第一九号証(枝番を含む。)及び証人加藤茂の供述並びに弁論の全趣旨によれば、次の事実を認めることができる。
郵政事業は、郵便事業、為替貯金事業、簡易生命保険事業からなるが、会計上、国の一般の歳入、歳出とは区別して運営される独立採算性が採られている。
郵政三事業の経営状態のうち、為替貯金事業、簡易生命保険事業は、安定しているが、郵便事業については、人力依存という性格が非常に強いため、平成三年度から、赤字を計上しなければならない状態が続いている。
また、郵政三事業の経営環境については、民間の宅配業者との競合、規制のなくなりつつある電気通信メディアとの競合、金融の自由化、金利の低下等により、非常に厳しい状況にある。
郵政事業の置かれているこのような状況に鑑みて、郵政省は、事業経営を見直し、民間の業者に負けないサービスを提供できるような事業体質に転換、改善するため、昭和六二年に、郵政事業活性化計画を策定した。
このような中で、平成元年、「職員胸章要綱」が制定され、それにより、ネームプレートの着用が義務付けられた。
更に、多くの民間企業において、被告主張と同様の理由で、従業員に関してネームプレートの着用が実施されている例が見受けられる。
以上の事実及び前記ネームプレート着用の目的に照らせば、一方では公共性をその特質としながら、他方、民間企業と異ならない事業体制の下で、それらと競争して利益を上げていかなければならないという特質に鑑みて、民間企業と同等のサービスを要求される郵政事業においては、他の民間企業が実施しているのと同様に、本件ネームプレートの着用を実施する必要性が否定できないことは明らかである。
(三) 原告らは、ネームプレートの着用は、サービスの向上につながっておらず、また、ネームプレートの着用により、職員の職責の自覚が醸成されるという関係にもないとし、ネームプレート着用により、右目的の効果はないと主張している。しかし、乙第一〇号証の一ないし三によれば、郵便局、銀行等の窓口を利用する者にとっては、担当者の名前が分かった方が質問しやすい等のことが認められ、ネームプレートの着用による対外的なサービス効果は否定できず、これに反する原告芳賀則政、原告岸本祐治各本人の供述は採用しえない。
また、郵便局内で、横領、詐欺等の不祥事が発生している例があるからといって、ネームプレート着用による職務に対する責任と自覚をもたせるという効果がないということはいえない。
2 氏名表示の態様
乙第一、二号証によれば、次の事実を認めることができる。
本件ネームプレートは、原則として、縦四〇ミリメートル、横六〇ミリメートル、厚さ三ミリメートルのパール板でできており、裏面にピン、クリップが付いており、それで衣服に止めるようになっている。
また、ネームプレートには、「〒」マーク、局(所)名、課名(分課設置局に限る。)、役職名及び氏名(原則として姓のみ)等を記載することとされている。そして、職員は、勤務中においては、ネームプレートを左胸部の見やすい箇所に着用するものとされている。
右によれば、本件ネームプレートは、勤務中という限られた時間中に、原則として姓のみ表示し、またその表示も過度に大きなものとは認められないから、氏名表示の態様が、前記ネームプレート着用の目的に照らして不相当であるということはできない。
3 氏名を表示することによる不利益
原告らは、本件ネームプレート着用の義務付けは、氏名が国家や他人から干渉され、奪われることであり、個人に、自己喪失感・人格を蹂躙された意識をもたらすものであり、個人の人格に対する重大な侵害となり、個人の尊厳を害するものであるとし、それに関する証拠として、結婚による改姓、朝鮮民族に対する創氏改名、校則による名札の着用、また旧ソビエト連邦の収容所における名札の装着の例に関する書証(甲第九ないし第一三号証)等を提出している。
しかし、甲第二号証、証人加藤茂の供述及び弁論の全趣旨によれば、現在の東北郵政局管内のネームプレート着用状況は、ほぼ一〇〇パーセントとなっており、そのほとんどが何らの不利益の意識なく着用していることが認められるのであって、これによれば、ネームプレート着用者に、着用による精神的な不利益はほとんど認められないものと推認することができる。
原告らが挙げるような例は、本件とは事情を異にしており、同列に論じることは適当ではない。
4 以上、氏名表示の目的、必要性、氏名表示の態様、氏名を表示することによる不利益の程度を総合すると、本件ネームプレート着用を義務付けることにより、氏名の表示を強制することに正当な理由がないとはいえない。
四 請求の原因4項(二)(プライバシー権の侵害)について判断する。
1 プライバシーとは、他人に知られたくない私的事柄をみだりに公表されないという利益であり、人格権の一つとして法的保護が与えられるべきものであり、そのための要件としては、公表された事柄が、私生活上の事実又は私生活上の事実らしく受け取られるおそれのある事柄であること、一般人の感受性を基準にして、当該私人の立場に立った場合、公表されることを欲しないであろうと認められる事柄であること、一般の人に未だ知られていない事柄であることが必要であると解される。
2 氏名は、身分関係の公証制度としての戸籍に記載される公証力ある名称であり、専ら公的な事柄であるというべきであり、したがって、氏名が一般の人に未だ知られていない事柄であるということはできない。しかも、一般人の感受性を基準にした場合、氏名を公表されること自体を欲しないであろうとは認められない。
そうすると、氏名それ自体がプライバシーに該当するということはできない。
五 請求の原因4項(三)(思想・良心の自由の侵害)について判断する。
原告らは、本件ネームプレートの着用強制の目的が、郵政当局のマル生運動の一環として、組合員の権利意識、団結意識の喪失、当局への服従・従属の意思表明を狙いとするものであり、このような目的の下にネームプレートの着用を強制することは、当局に対する忠誠心の有無を判断しようとするものであるから、原告らの思想・良心の自由を侵害するものであると主張する。
しかし、右のような目的で本件ネームプレートの着用を義務付けているものでないことは、前記二のとおりであるから、原告らの思想・良心の自由を侵害するものでないことは明らかである。
六 以上のとおり、原告らの主張する権利侵害はいずれも認められないから、原告らの請求は、その余の点について判断するまでもなく理由がないというべきである。
七 文書提出命令の申立てについて
原告らは、被告(東北郵政人事部)の所持する「胸章不着用者に対する措置要領」につき文書提出命令の申立て(平成三年(モ)第二一二八号)をしているが、提出義務の根拠を明らかにしていないし、提出を命ずる必要のないことは以上の説示から明らかであるから、右申立てを却下する。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官坂本慶一 裁判官大野勝則 裁判官佐藤重憲)
別紙<省略>